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野性の解放

作者: 西禄屋斗

 今日は満月だ。


 いちいち月齢を数えなくても、その日が近くなれば自然と血がたぎり、全身の毛がぞわぞわと逆立ってくる。


 その日、オレは起きてからというもの、夜の訪れが待ち遠しかった。


 この人間社会に溶け込んでいると、つい忘れてしまいそうになるが、オレの肉体にはケモノの血が流れている。それを知れば、人間たちはオレのことを忌み嫌うだろう。


 だから普段はヤツらと同じく、人間の姿をして生活していた。誰もオレの正体が人間ではないと気づいていない。


「課長、頼まれていた資料です」


 オレのことを独身のエリート課長と信じ込んでいる部下の里村さとむら美月みつきが資料を挟んだファイルを持って来てくれた。ありがとう、とオレが短く礼を言うと、その去り際、美月は意味ありげな目線をこっちによこして、自分の席に戻って行く。


 早速、オレは調べものをしようと、美月から受け取ったファイルを開いた。


 すると資料の一ページ目には小さな付箋ふせんが添付されており、オレの目は自然と吸い寄せられた。それには短い伝言メッセージが美月のきれいな字で書かれている。


『十九時に《シェ・プルミエ》で』


 書かれていたのは今夜のデートの誘いだ。


 オレは付箋を剥がすと、誰にも見られないよう丸めて捨てた。


 美月とデートを重ねるようになったのは、つい最近だ。人間としては美人の部類である美月は、教養も高く、他の独身男性社員からデートの誘いがしょっちゅうあると聞いている。


 ケモノであるオレは、人間のメスなどにそそられはしないのだが、向こうが勝手に誘ってくるのだから仕方がない。それにオレの正体を隠すカムフラージュにもなるので、彼女のせっかくの好意を利用させてもらっている。


 彼女に以前、どうしてオレなんかを、と尋ねたことがある。


 すると――


「私、これまでにも色々な男性の方とお付き合いしましたけれど、犬神いぬがみ課長は他の人と違う感じがして。そこに惹かれてしまうんです」


 と、彼女は頬を染めながら答えていた。


 確かに、その感じ方は正しいと言えるだろう。正真正銘、オレは人間ではないのだから。


 それにしても、よりにもよって今夜とはタイミングが悪い。今日は月に一度の満月の日だというのに。


 何か理由をつけてオレは美月の誘いを断ろうかと思ったが、三カ月先まで予約の埋まっている人気店をわざわざ選んだ彼女のことを考えると気が引ける。


 結局、食事だけなら構わないか、と彼女の誘いに乗ることにした。どうやらオレも非情には徹しきれないらしい。


 夜十九時、オレは約束通り、高級フレンチレストランとして知られる《シェ・プルミエ》を訪れた。フランス料理なんて上品な代物はオレの口に合わないのだが、美月がこういう店を好むのでそれに付き合うことにしている。


 すでに美月は先に店へ来ており、オレのことを待っていた。


「来てくださって嬉しいです、課長」


「里村くん、課長はやめてくれ。今はプライベートな時間なんだし」


「分かりました、犬神さん。じゃあ、私のことも美月って呼んでください」


 まだワインも口にしていないはずなのに、彼女はオレのことを潤んだような瞳で見上げて出迎えた。どうやら、かなり気に入られてしまったらしい。オレは心の中で肩をすくめた。


 味などあまり分からないまま食事を終え、オレたちは店を出た。どうせ肉を食べるなら、焼いたものよりも生の方がいいのに、と残念に思いながら、彼女を帰そうと店前でタクシーを呼び止めかける。


 すると、急に美月がオレの腕につかまってよろけた。


「ご、ごめんなさい。ちょっと酔ってしまったみたい」


「大丈夫か?」


 オレは早く別れて帰りたかったが、かと言って酔って歩けない部下を放っておくわけにもいかない。


 美月はオレの腕にしなだれかかってきた。


「ほんのちょっと夜風に当たっていれば酔いも醒めると思います」


 オレはため息をつきたかったが、辛うじてこらえると、美月を支えながら道路の反対側にある公園へ移動した。


 その公園は夜のデートスポットとして有名で、行ってみるとカップルばかりだった。他人の目など気にせず抱き合い、延々とキスしている若い男女もいる。まったく見ていられない。


 オレは美月の具合を気遣いながら、空いていたベンチに腰を下ろした。


「すみません、犬神さん」


「いや」


 そうは言ったものの、オレはなんとも困り果てた。人間のメスり寄られてもくすぐったいだけだ。それなのに美月は、オレの肩に頭を預けるどころか、抱きつくように手まで胸板に這わせてくる。


「しばらく、このまま……」


 酔って気持ちが悪いというよりも、何処か恍惚とした美月の表情を見ていると、どうやら彼女の演技にまんまと騙されたらしいと分かった。


「犬神さん、見て。ほら、今夜は満月よ。きれい……」


 うっとりとした様子で美月が囁いた。


「――っ!」


 店を出てから、オレはなるべく満月を見ないようにしていたのだが、こうも皓々と降り注ぐ月の光を浴びていると、全身に血が駆け巡り、次第にケモノの本能を抑えることが難しい状態になっていた。


 ――だ、ダメだ。今、彼女の前でケモノの姿に戻るわけには。


 しかし、そんな形ばかりの理性は、ケモノ本来の強烈な野性の前では無意味だった。


 夜空に浮かぶ満月を目にした途端、自我を繋ぎ止めていたはずの精神の鎖は呆気なく引きちぎられてしまう。


「うっ……ううっ……うあああああああっ!」


「い、犬神さん!?」


 突然、立ち上がって絶叫をあげるオレに、美月は目を見開いて驚いた。


 せめて誰にも見られないところで変身しようと思ったが、心配した美月が顔面蒼白でオレの腕をつかんで離さない。


「どうしたんですか、犬神さん!? しっかりしてください! ――キャッ!」


 オレは美月の手を乱暴に振り払った。だが、もう姿を隠している余裕はない。その場で四つん這いになった。


 ぞくっ、という悪寒に似たものが走った刹那、オレの肉体に変化が起き始める。全身を灰色がかった毛が覆っていく。腕は前肢に変じ、爪が鋭く伸び、さらには尻尾が生え、オレは人間からケモノへと姿を変えていった。


 野性の解放――その様を美月はしっかりと直視していた。


「い、いやっ……イヤァァァァァァァッ!」


 幻想的なまでに美しく照らされた月下の公園にて、オレは本来のあるべき姿へと戻った。とうとう、その正体を人間の前にさらしてしまったのだ。


 オレの変貌ぶりを目撃した美月は、信じられないといった驚愕の表情を凍りつかせている。


 だが、満月の持つ魔性をはらんだ光は、オレをさらなる本能に突き動かそうとしていた。もう、こうなってしまってはどうしようもない。身体が勝手に動いてしまう。


 完全にケモノと化したオレは、爛々と光るケモノの眼を美月に向けた。美月は射すくめられたようで、逃げるという判断も出来ないようだ。果たして彼女は、そこに人間のときのオレを少しでも垣間見ることが出来ただろうか。


 オレは満月にまつわる伝承の通り、とうとう部下であった美月を前にして――




 しょ しょ 証城寺 証城寺の庭は♪

 ツ ツ 月夜だ みんな出て 来い来い来い♪

 おいらの友達ぁ ぽんぽこ ぽんの ぽん♪


 ※ 原典:「証城寺の狸囃子」(作詞:野口雨情 作曲:中山晋平)

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